第一章:奇妙な依頼
1889年の春先、かすかな日差しがロンドンの霧を押しのけようとしていた頃、私、ジョン・ワトスン医師は、珍しく整理整頓に没頭する友人シャーロック・ホームズの姿を目にした。いつもなら、雑然とした部屋が推理の種床であり、新聞が無造作に積まれ、化学器具が暖炉上を占拠し、ヴァイオリンの弓がバター皿に紛れ込むような状態を好む人である。だが、この朝ばかりは、彼は慎重な手つきで埃を払い、イタリア教会史の書物の背表紙を整えていた。
「ホームズ、これは驚いた。」私は少々呆気にとられながら言った。「なにゆえ、こんな家事めいたことを?」
灰色がかった瞳が一瞬私を見やった。「ワトスン、」と彼は応えた。「ある事態には、整然とした環境が必要だ。今朝、間もなく二人の客が来る。その電報を昨夜受け取ったが、その用件を考えると整頓が賢明だろう。」
私がさらに問う間もなく、ハドスン夫人が二人の紳士を我々の部屋、ベイカー街221Bへと通した。その一人は痩せた長身で、上質だが地味な濃色ウールの服をまとっていた。年を重ね、白髪を丹念に梳かし、姿勢は威厳を保っている。その隣には少し神経質そうな、分厚い封筒を握りしめる若い男がいた。年長の紳士が進み出ると、襟元には金色の十字章が光り、何らかの聖職を示していた。
「ミスター・ホームズ。」年長の紳士は洗練され、落ち着いた声で言った。「私はフランチェスコ・ディ・ラウレンティ師で、ローマから参りました。こちらは助手のアンジェロ・ベルッチ神父です。」
ホームズは軽く会釈した。「ご着席ください、皆さん。こちらは私の友人で同居人のワトスン医師。長い旅路、お疲れではありませんか?」
ラウレンティ師は儚げな微笑を浮かべた。「疲れを嘆くには及びません、ホームズ氏。むしろ心が重うございます。我々はローマ教皇庁の依頼で参りました。ヴァチカンの力をもってしても解決困難な謎があり、ぜひあなたのお力をお借りしたいのです。」彼は上着の内側から封印された羊皮紙を取り出し、我々のテーブルに置いた。
ホームズの眉が僅かに上がる。「興味深い。」
ベルッチ神父が咳払いして口を開く。「我々は、ある写本を探しております。それは故アッティリオ・モレーニ枢機卿が所蔵していた古い暗号文書で、そこには数世紀前から教会に託された聖なる遺物の所在を示す手掛かりがあると言われます。その遺物が失われた今、悪用を恐れローマの上層部は震えています。その手掛かりを解き明かせるのは、どうやらホームズ氏、あなただけのようなのです。」
ラウレンティ師は羊皮紙を指でとんとんと叩く。「この書簡は故枢機卿が生前にしたため、奇妙なことにあなた宛であり、あなたなら謎を解明できると示唆しています。」
ホームズは目を細める。「私は枢機卿とは面識がありません。一体なぜ私を?」
「それも謎の一部なのです。」とラウレンティ師は言う。「だが時間がありません、ホームズ氏。どうかこの件をお引き受けいただけませんか?」
ホームズは薄く微笑んだ。「お任せください。その謎、私が引き受けましょう。まず、枢機卿が残した手掛かりを拝見しましょう。」
かくして、あの朝から始まった探求は、古いローマの文書庫からロンドンの秘密結社めいた界隈、さらには欧州最古の大聖堂群の地下納骨堂へと我々を誘うこととなる。私には、これから待ち受ける迷路のような展開を想像することすらできなかった。しかし、ホームズの卓越した推理の舵取りならば、濁流の中を確実に真相へと導いてくれると信じていた。
第二章:枢機卿の手紙
封蝋は枢機卿の紋章を押されていた。オリーブの小枝をくわえた銀色の鳩が刻まれている。ホームズは慎重に封を切り、羊皮紙をテーブルに広げた。私も教会の使者たちも身を乗り出す。
手紙は端正なイタリック体でイタリア語で記されていた。私のイタリア語力は貧弱だが、ホームズは流暢に読み上げる。
「ロンドン在住シャーロック・ホームズ殿
余の命は長くはない。直接お会いしたことはないが、その名声を存じ上げ、貴方の繊細且つ厳密な才覚こそ、私が残す最後の課題を解決し得ると確信している。ローマの文書館には多くの秘密が眠るが、聖エレナの'涙'と呼ばれる遺物にまつわる謎ほど難解なものはない。それらは信仰を食い物にする者によって盗まれた。私が手がかりを残したのは、私が暗号術を学んだ町……薔薇の香り漂う蔵書の眠る棚の間にある。
ホームズ殿、囁くような書架を探し、そこから旅を始めたまえ。
A.モレーニ」
ホームズは小さく笑い、「面白い、隠喩に包まれた謎ですな。'囁く書架'はおそらく図書館を指しますな。薔薇が香る知識の蔵……枢機卿が暗号を学んだ都市とは? ベルッチ神父、モレーニ枢機卿の若き日をご存じですか?」
ベルッチ神父は頷く。「彼はフィレンツェで学び、ビブリオテーカ・ラウレンツィアーナで古典語や暗号学を修めたと聞いております。」
ホームズが指を軽く打ち鳴らす。「フィレンツェ、メディチ家のラウレンツィアーナ図書館か……まさに有名な写本の宝庫。'囁く書架'とはそこを指すのでしょう。早速向かいましょう。」
ラウレンティ師は苦渋の表情。「悠長にはできません。堕落し追放されたロレンツォ・ベルクレーディ司教が、すでにこの手掛かりを追っているとの噂があります。彼は強欲で、これらの遺物を盗んだ張本人と疑われている。どうか急いでください、ホームズ氏。」
ホームズは頷く。「ではすぐに準備しましょう。ワトスン、君も同行してくれたまえ。ラウレンティ師、ベルッチ神父、参考資料があれば本日中に目を通します。明日にはフィレンツェへ出発しましょう。」
こうして我々は動き出し、その謎の糸口を求めて旅路に上った。
第三章:フィレンツェでの手がかり
最も迅速な行程を経て二日後にはフィレンツェへ到着した。穏やかな青空の下、我々はメディチ家のラウレンツィアーナ図書館を訪れた。その静寂はページをめくる微かな音と学者たちの囁きだけが響く。近くの礼拝堂の香を思わせる気配、そして高窓から漂い来る薔薇園の芳香が、室内を満たしていた。
ホームズは数時間にわたり、館長ルスポリ氏とイタリア語で静かにやり取りを行い、ついにめったに開かれぬ小部屋へと案内させた。その中でホームズは幾つもの古書を点検し、最後にはラテン語詩篇集の裏に挟み込まれた一枚の羊皮紙片を抜き出した。
「見てごらん、ワトスン。」ホームズは低い声で言う。「この羊皮紙には奇妙な暗号がある。文字の列と、赤い点が微かに記されている。」
覗き込むと、「M R I A T ... O H T E L ... N A S E」などと意味不明な文字列が並んでいる。ホームズは手帳を取り出し、様々な方法で文字を並べ替えた。しばし試行錯誤の末、彼は満足げに小さく声を上げた。
「モレーニ枢機卿はなかなか手強い暗号作家だ。」とホームズ。「これは転置式の暗号だ。正しく並べ替えると、『サン・ミニアートの薔薇園にて、真夜中に"ヘレナ"と唱えよ』となる。」
彼は勝ち誇ったように私を見た。「サン・ミニアート・アル・モンテ教会だ、ワトスン。フィレンツェの高台にある教会で、真夜中に'ヘレナ'と唱えるのだ。何らかの仕掛けが現れ、新たな手掛かりが判明するはずだ。」
その夜、月光がフィレンツェの屋根を銀色に染める中、我々はサン・ミニアートの薔薇園へと登った。すべてが静寂の中、真夜中が訪れた瞬間、ホームズはそっと「ヘレナ」と囁いた。
すると、石のベンチの基部からかすかな擦過音が聞こえた。ホームズが屈み込んで叩くと、小さな板が滑り開き、革装の手帳が現れた。その中には一輪の干からびた薔薇と一文が記されている。
そこにはこうある。「カンタベリーに眠る地下墓所の番人を探せ。」 そして下部には奇妙な鍵の素描があった。
ホームズは低く笑みを浮かべる。「手掛かりは英国へ戻れと言っている。次はカンタベリーだ。だがベルクレーディ側も迫っているかもしれない、慎重に動かなければ。」
第四章:カンタベリーの影
一旦ロンドンへ戻り、ホームズはさらに参考文献を吟味した。221Bに戻った彼は警戒を強め、カーテンの陰から通りを窺うようになった。
二日目の夕刻、ホームズは急に私に向き直る。「ワトスン、尾行されている。ここ二日、同じ逞しい男が向かいの通りでうろついている。彼はただ者ではない。」
翌朝、我々は密かに出立し、カンタベリーへ赴いた。大聖堂の尖塔が古都を見下ろす中、我々は特別な許可を得て地下墓所を巡ることになった。案内してくれた館守のヒューソン氏は背が高く物腰柔らかで、手に灯を提げている。
ホームズは手掛かりのメモを見せ、「地下墓所の番人」とは人ではなく伝説上の目印、すなわち騎士の石像だと突き止めた。ヒューソン氏は薄暗い通路をたどり、古い墓碑が並ぶ静かな地底へ我々を導く。
そこには剣を下向きに構え、跪く騎士の像があった。ホームズがその台座を調べ、フィレンツェで見つけた干し薔薇を小さな窪みに差し込むと、かすかなクリック音がして像が脇へ回転し、小さな空間が現れた。その中には装飾豊かな小箱が納められている。
箱を開くと、一巻の巻物と金のメダリオンが出てきた。メダリオンにはオリーブの枝をくわえた鳩、つまり枢機卿の紋章が刻まれている。巻物は地図と奇妙な詩が記されていた。
「尖塔の街の下
聖なる歌声響くところ
聖エレナの涙は輝く
沈黙の聖堂にて」
ホームズの目が閃く。「'尖塔の街'はオックスフォードやプラハを指すかもしれない。だが'聖歌隊(choir)'に言及があるから、英国の大聖堂内にある静かな礼拝堂かもしれない…」
私が何か言おうとしたその時、闇の中から不意に影が襲いかかった。フードを被った男が短剣を振るい、私は叫んだが、ホームズは素早く身をかわした。私がその男ともみ合い、ヒューソン氏の灯が揺らめくと、そこには痩せぎすで鷹のような鼻筋を持つ冷酷そうな男の顔が浮かぶ。彼は呪詛の言葉を吐き、布切れを残して逃げ去った。
ホームズはその布切れを手に取る。「ベルクレーディ司教の手先だな。奴は必死になっている。早急に謎を解かねば。」
第五章:隠された礼拝堂
カンタベリーの宿に戻り、ホームズは焦燥気味に歩き回った。「聖エレナの'涙'とは、聖ヘレナが真の十字架を発見した伝承に関連する遺物なのだろう。その断片か、あるいはそれにまつわる聖なる水か…。 '沈黙の聖堂'とは、一度封印され人々に忘れられた礼拝堂ではないか?」
私はオックスフォードのクライスト・チャーチ大聖堂に封じられた小礼拝堂について読んだことがあった。それを伝えると、ホームズは頷く。「クライスト・チャーチ大聖堂に行こう。聖歌隊席の奥に密かな小礼拝堂があるやもしれん。」
オックスフォードの静かな夕暮れの中、我々はクライスト・チャーチの回廊を進んだ。メダリオンが鍵の代わりとなり、聖歌隊席の後ろに隠された扉が開く。そこは月明かりが差し込むだけの小さな礼拝堂であった。
祭壇上の白布に包まれた小さな聖遺物箱を開くと、ベルベットに包まれた三つの水晶小瓶が現れた。いずれも透明な液体を湛えている。ホームズはこれこそが「聖エレナの涙」だと断言した。真の十字架に関わる清水と伝わる神聖な遺物なのだ。
だが、確認した途端、鋭い声が闇を裂いた。銃を構えた男、ベルクレーディ司教本人が現れ、「それを渡せ!」と低く唸る。「さもなくば、貴様らを撃ち殺す!」
ホームズは微動だにせず。「司教、これ以上の愚行はおやめなさい。教皇庁は既にあなたの裏切りを知っている。遺物はあなたの物にはならぬ。あなたがさらなる罪を犯す前に考え直すべきだ。我々はすべて手を打ってある。ヴァチカンはこれらの遺物の帰還を待っている。」
一瞬、ベルクレーディは躊躇した。その手が震え、銃口が我々を往復する。すると彼の背後からベルッチ神父とヴァチカン衛兵二名が静かに現れた。多勢に無勢、逃げ場を失った司教はついに諦め、うめくようにして銃を下ろした。
ホームズは遺物箱をベルッチ神父に手渡す。「これをローマへお持ち帰りください。枢機卿の謎は解かれ、教会の信頼は守られました。」
エピローグ
数週間後、ベイカー街にて、ホームズは赤革装丁の小さな本を彼の暗号学論文集の隣に収めていた。私は不思議に思って尋ねる。
「新たな宝物かい、ホームズ?」
「ラウレンティ師からの贈り物だよ、」ホームズは答えた。「モレーニ枢機卿による暗号論文の写しだ。感謝の言葉を添えて今朝届いた。遺物は無事ヴァチカンへ戻り、ベルクレーディは拘束された。教会の名誉は汚されていない。」
私は微笑んだ。「君は見事に枢機卿の謎を解いたね。」
ホームズは肩をすくめ、わずかな笑みを浮かべる。「要領を得て手順を踏んだだけさ、ワトスン。世界には誰も注意を払わぬ明白な事柄が溢れているものだ。今回は枢機卿の巧妙なパンくずリレーを辿ったに過ぎない。」
二人で窓辺の紅茶をすすり、ロンドンの霧が通りを覆うのを見守る。その平穏なひととき、私は改めて感じた。ホームズの才覚は単なる知性ではない。混乱と不安に揺れる世界に秩序と真実をもたらす稀有な力が、彼にはあるのだ。こうして「枢機卿の謎の冒険」は幕を閉じ、ホームズ氏の年代記に新たな一頁が加わった。