第一章:霧深きベイカー街の訪問者
ロンドンの湿った霧はベイカー街を死装束のごとく包み、街の音を覆い隠してはガス灯の揺らめく光の中に、長く歪んだ影を落としていた。いつもの下宿の居心地よい空間では、暖炉にくべられた薪がパチパチと音を立て、古い家の骨身にまで染みた冷気と戦っている。痩身で鋭利な鷲鼻を持つシャーロック・ホームズは擦り切れたガウンをまとい、炉辺で落ち着かぬ足取りを刻んでいた。その傍らで私、ジョン・H・ワトスンは安楽椅子に沈み、朝刊を手にしていたが、しきりに同居人の苛立たしげな動きへと視線を戻していた。
「今日は落ち着かないようだね、ホームズ?」と私は尋ね、くしゃくしゃになった新聞を脇に置いた。
彼は足を止め、鋭い眼差しを私に向ける。「落ち着かない? いや、ワトスン、正確には『期待』といったほうがいい。地震前の微細な揺れのような、この朝には奇妙な緊張感が漂っているのだ。停滞した日常に小石が投げ込まれ、水面が乱れる前の予感――そんなものさ。」
私は微笑みを浮かべた。彼の芝居がかった言い回しは、たいてい興味深い冒険の前触れであることが多い。ここ最近は、ちまちまとした窃盗や家庭内の揉め事ばかりで、我が友人の天才的頭脳を試す場も乏しかった。
ちょうどその時、鋭いノックの音がドアに響いた。ハドスン夫人のかすかな足音が続き、やがて我々の前に姿を見せたのは、一人の紳士だった。その男は50歳ほどで黒いモーニングコートに身を包み、表向きは整然とした様子を保とうとしているものの、その顔には心配の刻み皺が刻まれ、手にした銀頭のステッキを神経質に捻っていた。
「シャーロック・ホームズ氏でおられるかな?」男は掠れた声で尋ねる。
「いかにも、私がホームズだ。」ホームズは鋭利な眼光で新たな依頼人を見定めている。「そちら様は?」
「私はアシュワース卿と申します。」来訪者は、名探偵の名声の前に幾分声を取り戻したようだ。「極めて繊細かつ緊急を要する案件で参りました。」
「では、どうぞお掛けください、アシュワース卿。」ホームズは空いた安楽椅子を示す。「緊急を要するとのこと、詳しく伺いましょう。」
アシュワース卿は椅子へ腰を下ろすも、その背筋は板のように硬直していた。喉を鳴らし、依然不安げな調子で口を開く。「それは……暗号に関することです。ある貴重な骨董品に仕組まれた、複雑な暗号なのです。」
「骨董品とな?」ホームズが眉をわずかに上げる。「それは何でしょう。」
「スナッフ・ボックスです。」アシュワース卿は答える。「黒檀に真珠母貝を象嵌した家宝で、その蓋に並んだエメラルド――この宝石の配置が暗号の基礎となっていると伝わっております。」
「そのエメラルド入りのスナッフ・ボックスが、行方不明なのですね?」ホームズは鋭く問いただす。
アシュワース卿の表情が曇る。「その通りです。昨晩、私の書斎から忽然と消えました。破壊された形跡もなく、争った形跡もない。ただ、跡形もなく消えたのです。」
「その暗号の意味するところはお分かりかな?」ホームズが身を乗り出す。
「いいえ、ホームズ先生。そこが肝心なのです。祖父がその暗号を仕組んだ張本人で、秘密結社や暗号趣味に精通していたようなのですが、解読法は墓場まで持っていってしまいました。」
「その秘密の価値はいかほどのものだと?」私が思わず口を挟む。
アシュワース卿は躊躇する。「正直なところ、分かりかねます。祖父は政治的にもその他の面でも強い影響力を持っていた人物。隠された財宝の在り処かもしれませんし、もっと敏感な、危険な秘密かもしれない。」
ホームズの眼が怪しく輝く。「『敏感な』とは面白い。さて、スナッフ・ボックスとその暗号の存在を知る者は誰でしょう?」
「ごく限られた人間です。」アシュワース卿は眉根を寄せる。「近しい家族と親密な知己だけ。誰も盗む理由などなかったと信じていましたが……。」
「他に何か盗まれたものは?」ホームズはさらに尋ねる。
「いいえ、ホームズ先生。他の書類も貴重品もまったく手付かず。狙われたのはスナッフ・ボックスただ一つ。」
ホームズは再び部屋を行き来し始めた。その脳裏には無数の可能性が交錯しているのだろう。「つまり、犯人は値打ち物が目当てではなく、その暗号自体に狙いを定めていた。解読方法は分からずとも、その価値を知る者……。」
アシュワース卿は嘆息する。「しかし、誰が? なぜ今になって?」
「その問いこそ、我々が答えねばならない。」ホームズの声が力を帯びる。「アシュワース卿、あなたの書斎に出入りできる者は? 使用人か、来訪者か?」
アシュワース卿は家内の動線や訪問者を列挙する。ホームズは鋭い質問を投げかけ、疑わしい点を洗い出そうとしている。
「スナッフ・ボックスはどこに保管していました?」とホームズ。
「机の引き出しに鍵をかけ、常に私が身に付ける鍵で施錠していました。」
「それでいて、破壊痕なしですか?」ホームズが反芻する。「妙ですね。犯人は錠前を開ける技術か、合鍵を持っているか、あるいは鍵の在り処を知っていたか……。」
アシュワース卿ははっとする。「予備の鍵が一つ、暖炉上の絵画裏にある小型金庫にしまってあります。その存在を知る者はごくわずかです。」
「なるほど。」ホームズは低く呟く。「これで容疑者は絞られます。暗号の価値と予備鍵の存在を知る人間――その狭い範囲で考えられますな。」
そしてホームズは私を振り返る。瞳には喜びにも似た閃光が宿っていた。「ワトスン、我々はアシュワース卿の邸宅へ赴かねばなるまい。現場は往々にして言葉以上の真実を語ってくれるものだ。」
第二章:五月雨色のロンドンと失われたスナッフ・ボックス
一時間もしないうちに、我々はメイフェアのアシュワース卿邸へと案内された。そこは華美な邸宅で、例の書斎は壮麗な調度品に囲まれ、壁一面に書籍が並び、狩猟の戦利品が飾られていた。巨大なマホガニーの机が部屋の中央に鎮座し、その引き出しは今は無残に開かれ、内張りのベルベットは空しく、スナッフ・ボックスの影も形もない。
ホームズは拡大鏡を手に、錠前から引き出し、周囲の家具、絨毯の毛並みに至るまで綿密に調べ始めた。アシュワース卿は落ち着かぬ面持ちで見つめている。
「こじ開けた痕跡はありませんな。」ホームズは錠前を詳しく見定めて宣言する。「やはり合鍵使用でしょう。」
続いて暖炉上の絵画に目をやり、その裏に隠された小型金庫を丹念に調べる。枠にはかすかな引っかき傷。「犯人が急いで金庫を開けた時につけた傷かもしれません。」とホームズは言う。
さらに彼は机の下や付近の床を細かく検分する。やがて分厚い絨毯に極めて微妙な凹みを指し示した。「興味深い、ここをご覧。ほとんど気付かぬほどだが、何か小さな台座を持つ重めの物が一時的に置かれたような跡がある。」
「スナッフ・ボックスを床に置いた跡ということでしょうか?」私が問う。
「その通り、ワトスン。」ホームズは頷く。「犯人は引き出しを開け、ボックスを一旦床に置き、何かを取り出したか、あるいは他の手はずを整えてから持ち去ったのでしょう。」
続いて窓を調べ、施錠が保たれていることを確認した。「窓からの出入りはないようですな。」
一通りの検分を終え、ホームズは腕組みをして考え込む。「犯人は部屋の間取りも、金庫の位置も、予備鍵の存在も知っていた。さらにスナッフ・ボックスがどの引き出しにあるかも心得ていた。」
彼はアシュワース卿に振り向く。「先ほど挙げた予備鍵の存在を知る人物について、詳しく教えていただけますか?」
アシュワース卿は三名を挙げる。末弟、遠縁の従兄(いとこ)で領地管理を任せている者、それから長年仕えている弁護士。ホームズは静かに聞き入る。
「この中で暗号を欲する動機がある者は?」ホームズが問う。
アシュワース卿は言いづらそうに言葉を選ぶ。「弟には昔から嫉妬まじりの感情がありました。従兄は最近、財政的に困窮しているとか…。弁護士は信頼を置いていますが……想像がつきません。」
「考えられる可能性はすべて洗う必要がありますな。」ホームズが言う。「また、あなた方の会話を盗み聞きしていた者、偶然にも金庫の存在を知った使用人など、潜在的な容疑者は他にもいるかもしれない。」
第三章:秘密結社と翡翠の暗号
続く数日間、ホームズはいつものように電光石火の行動で捜査を展開した。アシュワース家の使用人たちに聞き込みを行い、その夜の不審点を洗い、従兄の財政状況を徹底的に調べ、さらには卿の弟の動向も探った。私はその多くの外出に同行し、彼の驚くべき観察力と、寡黙な相手からも情報を引き出す巧みさに改めて感銘を受けた。
従兄は財政難の真っ只中にあり、その祖父もまたアシュワース卿の祖父と同じ秘密結社――「蛇眼の会」(Order of the Serpent's Eye)に属していたことが判明する。その結社は古い儀式や象徴体系を持ち、しばしば所有物に暗号を仕込んでいたという。
ある午後、ベイカー街の下宿で情報を整理していると、ホームズが突如椅子から跳ね上がるように立ち上がった。その眼には勝利の光が宿っている。
「ワトスン、思い出してくれ。あの微細なカーペットの凹みを、我々は当然スナッフ・ボックスが原因と考えたが、もしかすると誤りだったかもしれない!」
「誤り?」私は混乱する。
「スナッフ・ボックスは小さく、底面は平らだ。あの凹みは、もっと重く僅かに形状のある物体が押し付けられた痕だとしたらどうだ?」
ホームズは書棚から小さな革表紙の本を取り出す。「アシュワース卿が言及した祖父の秘密結社、『蛇眼の会』。彼らの儀式や紋章はしばしば所有物に封じられていた。ここを見たまえ。」
彼は本を開き、ある紋章を指し示した。そこには蛇が眼を巡るようにとぐろを巻いた独特の印章が描かれている。「この印、下部にわずかな突起がある。これを床に押し付ければ、あのような僅かな痕跡が残りうるのでは?」
「印章……あるいはシグネットリング(印章指輪)か!」私は気付く。
「その通り、ワトスン!」ホームズは満足気だ。「結社に関係した印章を持つ人物が、この部屋で何らかの作業を行った可能性が高い。犯人は暗号の存在を知り、そのヒントを得るため結社の紋章を押しつけていた、あるいは別の物をマークしていたのかもしれない。」
我々は結社の残した文献を洗い、アシュワース卿の周囲でその会合に関わり得る人物を探した。すると例の従兄は、祖父から受け継いだとされる印章類のコレクションを持っていることが分かった。財政難の彼なら、暗号の秘密が財宝を指し示すならば、奪う動機は十分だろう。
第四章:印鑑の痕跡と真犯人の告白
追加調査の末、ホームズは再びアシュワース卿の邸に足を運び、従兄の行動を密かに探り当てた。その夜、従兄は書斎周辺で目撃されていたことが判明する。すべての点が線として結ばれた。
ホームズは従兄に推理を突きつける。最初こそ従兄は否定したが、ホームズの揺るぎない論理と証拠の前に観念した。彼は盗みを認め、祖父の結社関連の情報から、暗号の価値に目を付けたことを白状した。
こうしてスナッフ・ボックスは従兄の隠れ家から取り戻され、アシュワース卿は安堵に包まれた。その祖父が遺した秘密が、どれほど深い影響を持ち得たかを思い知らされたのである。
ベイカー街に戻り、やがて霧が晴れ始めるロンドンの街を窓外に眺めながら、私は考えを巡らせた。当初は単純な盗難事件と思われたものが、古の秘密結社、翡翠のごとく緑深い宝石に秘められた暗号、そして家系の影を紡ぐ複雑な糸へと繋がっていたのだ。
「見事だったよ、ホームズ。」私は称賛を込めて言う。「あの微細な絨毯の痕跡一つで、結社の紋章を想起し、そこから犯人に辿り着くとは。」
ホームズは珍しく穏やかな笑みを浮かべる。「観察の妙、ワトスン。世の中には無数の手掛かりが散らばっているが、気付くか気付かぬかは観察眼次第ということだ。時に最大の秘密は、目に見えぬ形で過去の囁きとして潜んでいる。」
彼はパイプに火を点し、その香り高い煙が天井に渦を巻く。「エメラルドが秘める真実は、今後アシュワース卿が解き明かすことだろう。あの祖父が残した謎、翡翠のごとく艶めくその秘密が、果たして何を告げるのか――それは、これからの課題だ。」
こうして一件落着し、事件は幕を閉じた。ロンドンの霧は晴れ、清冽な朝が訪れる。ベイカー街の奥深く、世界で唯一の諮問探偵は、また新たな真理を求めて、細やかな観察と推理の旅を続けていくのである。