「我思うゆえに君あり」というコペルニクス的転回は、私という存在の基盤を根底から揺るがす挑戦である。「私」という人称を置くことが「君」の存在を確定させるのである。デカルトが「我思うゆえに我あり」として思考主体である自我を確立したのに対し、この転回は私を支える無数の「他」を浮かび上がらせる。仏教の縁起が示すとおり、土や水、空気、そして他者といった無数の要素が絡み合い、一人の人間の存在を可能にしている。ハイデガーが共同性に根ざす「他者との共在」を強調したように、「我」は「君」や「世界」との関係性なしには定義不可能だ。トルストイが説いた「全員を愛する」理性は、単に隣人を慈しむ心地よい感情ではなく、相手の中に溶け込み、境界を超えて一体化する行為へと昇華される。

 このような視点に立つ時、「私」という生の原因が常に私以外にあると知ることは、虚無への陥りではなく、むしろ新たな勇気の源泉となる。私が思考することによって君があり、君があることによって私が再定義される。みんなの幸せを祈り行動することの尊さはこれより明らかである。「1人がみんなのために、みんなが1人のために。」