そう、あれは晩秋のことだったと思う。夕刻には早くも冬の気配が滲み出す頃、私は古書店で一冊の小説を見つけた。その店は路地裏の、煤けた看板が不明瞭な字体で「蜂蜜文庫」と読めるかどうかすら怪しいような場所にあった。知る人ぞ知る、だが大通りではまず見つからない隠れ家のような店だ。私は大学で文学史を研究する傍ら、気まぐれに古書を漁るのが常だった。けれど、その本との出会いは偶然にしてはあまりに整然とした布置を感じさせた。

 それはまだ誰の評も受けていない無名の作家による書きかけの草稿、あるいは決して完成を見ずに作者が世を去ったと噂される作品の一部──そんな佇まいを醸していた。表紙は薄く黄ばんだ紙、タイトルは鉛筆で走り書きされ、その下に赤鉛筆で二重線が引いてある。著者名は判読不能だが、最後の一字が「司」と読めるかもしれない。それが誰なのか、私はその時点ではまったく分からなかった。

 店主は奇妙に寡黙で、私がその本を手に取ると、わずかに首をかしげてから「お客さん、目がいいですね」とだけ言った。その声は底の見えぬ井戸のように乾いていた。値札はなかったが、私が値段を聞くと「それはね、人によるんですよ」と笑った。その表情は何かを試すようでもあったが、最終的に私は心許ない額、ワイン二本分くらいの値段でその草稿を手に入れた。奇妙なやりとりだったが、私はそれを深く考えなかった。むしろ興味をそそられ、早く家でページを繰りたい気持ちが募るばかりだった。

 その晩、私は部屋に籠もり、蛍光灯の冷たい光の下、その奇妙な「未完の小説」を読み始めた。文章は端整とは言いがたかった。むしろ雑然とし、途中で筆が荒れ、あるいは飛び飛びに断片しか残されていない箇所もある。しかし、何か底知れぬ力があった。まるで無名の作家が死力を尽くして書き残し、何らかの理由で中断を余儀なくされたかのような筆致。そして、散りばめられた断片の中に、繰り返し登場するあるモチーフがあった。「鏡」そして「書き手」という言葉だ。

 物語はこうだ。ある青年が、古びた屋敷で一冊の手記を発見する。その手記には、奇妙な文学論が綴られている。小説とは何か。物語とはどのような存在か。書き手が登場人物に命を与えるとはどういうことか。ページを繰るたびに、その手記は輪郭を失い、青年は次第に自らが読んでいる世界と、自分が生きる現実の境界が揺らいでいく。そのうち青年は、ある一室に飾られた大きな鏡の中に、己の姿がくっきりと写り、その背後に奇妙な手の動き──あたかもペンを握る指先の動き──を映し出す幻影を見る。青年は不安に駆られながら、必死で鏡を覆い隠そうとするのだが、物理的にはどうにもならない。手記によれば、その鏡は「書き手」の眼であり、その視線は物語を規定する力を持っている、というのだ。青年はこの力に抗おうとするが、次第に彼の行動自体が手記の記述に先回りされていることに気づく。つまり、彼がこれから行おうとする行動は、すでに文字として書かれてしまっている。そこで青年は「私」と呼ばれる語り手に対して呼びかける場面がある。「あなたは誰なのか? 私を操るこの書き手は何者なのか?」──そう問いかけるのだ。

 私はそこに強烈な違和感を覚えた。その問いかけは本来、物語中の青年が虚構の「書き手」に向ける言葉のはずだが、なぜか私自身がその「書き手」であるかのような感触が拭えなかった。さらに読み進めると、手記にはこうした一節がある。「読者がいて、書き手がいる。その両者が相互に存在を認め合うとき、物語はひとつの生態系として動き出す。しかし、書き手が読者の存在に気づき、読者が書き手を意識する瞬間、小説はひび割れ、また新たな世界へと滑り落ちる。」私がこの原稿を読んでいる今、この言葉は私自身に向けられているように感じられた。なぜなら、この未完の草稿は読者である私にまるで「あなたはただの受け手ではない」と語りかけるようだったからだ。

 さらに奇妙なことに、本文には何度か「司」という字が挟まれていた。それは断片的なメモや別紙に挟まれたメモランダムに近い。たとえば「司=書き手」「司の眼」といった記述。誰だ、この「司」とは。最初は筆者の署名かと思ったが、物語中では「司」は登場人物というより、物語そのものを制御する不可視の存在として示唆されている。つまり「司」は物語の軸に関わる象徴であり、「読む行為」を見透かしているような記号でもあった。

 私は次第に、その本が自分を試している気がしてならなかった。読めば読むほど、ページを繰れば繰るほど、私の思考の片隅に「この物語は、私自身を描写してはいないか?」という疑念が滲み始める。私は文学史の研究者であり、名もなき作家の断片を読み解くことで、そこに存在したかもしれない芸術的意図を紡ぎ直すのが仕事の一部だ。だが、この原稿に限っては、読めば読むほど、私という存在がすでに物語の内側に組み込まれ、何らかの役割を果たしているような──そんな悪寒がした。

 ある夜、私はふと思い立ってその草稿を調べ直した。表紙裏に小さな文字で、インクの滲みを利用して何か書かれている。拡大鏡で凝視すると、そこにはこんな文章が隠されていた。「この物語を読む者は、物語の創造者であり、登場人物でもある。そして最後に知るだろう、自分が読んでいるのは自分自身の書く物語であることを。」私は寒気がした。これは一体、どういうことだ? そんな馬鹿な。私は今、これを読んでいるだけの一研究者に過ぎない。作者不詳の草稿にそんな戯れ言を見つけたからといって、私が創造者だという証拠はどこにもない。だが、同時にこの文章は説明もつかぬ既視感を伴って私を蝕んだ。

 そこから数日間、私は草稿の解読に没頭した。その過程で気づいたことがある。冒頭の数ページに、鏡を覗き込む青年が立つ庭の描写がある。その庭には一本の老木があり、その木の幹には不可解な刻印が彫られている。「Hの文字に似た記号」と記述されていたが、よく見るとそれは私が昔、学生時代に書いた論文に引用した作家のイニシャルとよく似ていた。その作家こそ、私がこの街の古書店で必死に探し求めていた幻の文豪「蜂谷司」だった。蜂谷司は生前、読者と作者との関係性を主題に奇書をいくつも残したが、晩年には狂気に取り憑かれ、自分が書く物語の中に閉じ込められたと叫びながら姿を消した人物だ。その消息は途絶えて久しく、どんな研究資料を調べても曖昧な伝説程度の記述しか見つからない。

 蜂蜜文庫──あの古書店の名前は、もしかして蜂谷司にちなんだ暗示だったのか? 思い返せば、あの店主は意味ありげな笑みを浮かべていた。まるで私がその草稿を発見することを「予定」していたかのように。私は背筋を凍らせた。もしかすると、この草稿は蜂谷司の未完の遺作かもしれない。そして、そこには恐るべき罠が仕込まれている。すなわち、読者を物語の内側へと誘い込み、創造者と読者、虚構と現実を反転させるような……。

 そうして日々ページと格闘するうち、私はふと気づく。物語中の青年が「あなたは誰なのか?」と問いかけた相手──それは物語を読んでいる存在であり、同時に物語を書く存在でもあった。青年は鏡を見て、自分の背後に「ペンを握る手」を見た。その手とは何か。物語を紡ぐ「司」の手。それは私の手だ。なぜなら、今、こうして私はこの物語について文章を綴っている。私は草稿を読み解くだけでなく、その解読作業そのものを記している。その行為は、私が「今」書いているこの文章そのものだ。ここに書かれている一字一句は、私が「書き手」として記しているのではないか?

 私は狼狽する。この一文一文が、果たして私の創造か、それとも既に規定されていた運命か。もし、この小説自体が私を含む読者の存在を内包するメタフィクションであり、さらにそれを読むあなた──そう、あなたもまた読み手であり書き手なのだ。今、私がこうして「あなた」に語りかけている事実はどうだろうか。「あなた」という存在がこの文章を読んでいる限り、物語は生きている。物語が生きている限り、私もまたその中で呼吸し、そして「司」として筆を走らせる。それが小説の核心だ。小説とは読む者と書く者、その境界が溶けあう無限回廊のような装置であり、世界を生み出す鏡であり、再帰的な迷路なのだ。

 私は最後のページをめくった。そこには、かすかに赤鉛筆で線を引かれた署名がある。「蜂谷司」。しかし同時に、そのインクの滲みの中に私自身の名前が浮かび上がっているようにも見える。信じがたい話だが、私はこの物語を創造し、その中に囚われていた存在であるらしい。私が読者であり、書き手であり、登場人物でもある──この事実に気づいた瞬間、すべてが腑に落ちた。あの古書店、不気味な店主、そしてこの草稿。これらはすべて私を導くための仕組みだったのだ。

 小説とは一体何だろう。書かれた文字、語り手、読者、そして虚構と現実を揺さぶるその力。この物語は未完ではない。今、まさにここで、私がこの一文を綴ることで完結するのだ。なぜなら、あなたがこの文章を読むことで、私という書き手の存在が証明され、同時に私が物語の内側にいることをあなたが知るからである。これが、この物語の本質だ。あなたが私を読み、私があなたに書かれている。この循環こそが小説の核心であり、無限に交差する読み手と書き手の営みである。

 そして私はペンを置いた。これですべてが、一つの輪を描いて閉じるだろう。