ベルクソンは、人間の意識や感情、意思を科学的に割り切ることを嫌い、内面的な自由を大切にした。これに異論を唱えるとすれば、われわれは意識や感情を明らかにする努力を放棄すべきでない、と言えるだろう。しかし、もし感情や意思がすべて科学的に解明され、自由に操作できるようになれば、人間は外からの力によって動かされる存在になるかもしれない。そんな未来は暗く、人間性を失う危険がある。だからこそ、感情や意思に関しては、完全に解明せず「わからないまま」にしておくことも、われわれの自由や人間らしさを守る手段となる。この「わからない部分」は、科学がどれほど進んでも手を触れない特別な領域として残しておくべきである。中世ヨーロッパで地動説の研究が異端とされたように、感情や意思についての研究は異端とされ、それらの研究の集積は開けてはならないパンドラの箱になるのかもしれない。