春先の冷たい雨が降りしきるなか、私は十年ぶりに故郷の町へ戻ってきた。幹線道路から分かれて山裾へと続く細い道は、幼い頃とほとんど変わらぬほど寂れている。この町は今も朧げな記憶の中に沈んでいる。私はあの日以来、この地を離れ、そして戻る決意を固めるまで随分とかかった。

 あの日――十年前、町で最も敬愛されていた音楽教師、日下部(くさかべ)華代が殺害された。犯人は見つからず、捜査は迷宮入りとなり、町は急速に寂れていった。過疎化していたこの町から若者はほとんど出て行ったが、私が戻ってきたのは、ジャーナリストとしてこの未解決事件を掘り起こすためだった。真相を究明し、封印された過去と決着をつける。それがこの地へ戻る唯一の動機だった。

 私はバス停から町役場跡へと歩く。途中、朽ちたポスターが風に揺れる。そこには日下部先生が微笑むモノクロ写真が残っている。先生はかつて中学校で音楽を教え、多くの生徒に慕われていた。「赤いマフラー」が彼女のトレードマークだった。そのマフラーは事件当夜も彼女の首に巻かれていたという。

 町役場の建物は廃墟同然だったが、旧資料室だけは辛うじて保存されていた。私は管理を任されているという年老いた男性、比山(ひやま)に会う。彼は怯えたような目つきで私を見、細い声で言った。

「また、あの事件について調べる人が来るとはねぇ……もう、誰も思い出したくない話だよ」

 私は名刺を差し出し、当時の新聞記事や報告書を閲覧したい旨を伝えた。比山は渋々頷き、埃まみれのファイルを取り出す。その中には事件当夜の詳細が断片的に残されている。

 日下部華代、当時35歳。夜、校舎裏で倒れているのを巡回中の警官が発見した。凶器は見つからず、物取りでもない。事件前、先生は何か告発めいたことをしようとしていたらしいが、詳細は謎のまま。当時の生徒は何を知っているのか。私はファイルを閉じ、あの頃のクラスメイトたちに会ってみようと思った。

 最初に会ったのは天童(てんどう)だ。町はずれの古い喫茶店を経営していると聞いていた。店の中は薄暗く、古いジャズが流れている。天童はやせ細り、どこか影のある笑い方をした。

「よく戻ってきたな、あの頃のことを思い出すために? ま、好きにすればいいさ」

 彼は気乗りしない様子で、当時の話を断片的に語った。

「先生は何かを暴こうとしていた。町の有力者、特に君の家が絡んでいたようだって、噂があったんだ……」

 私の家? 父は土建業を営んでいたが、十年前に急に仕事を畳んで町を出た。あれは事業不振による自己破産のためだと聞かされていたが……。天童は淡々と続ける。

「日下部先生は、何か重大な秘密を掴んでいたらしい。でも、その夜、彼女は殺された。真相は誰も知らない――いや、知っていても口に出せないんだよ、ここじゃ」

 私は天童に礼を言って店を出る。次は志野原(しのはら)、当時はクラス委員長で、今は駅前の小さな民宿を営んでいる。宿の軒先で彼女は花に水をやりながら、私の顔を見るなり驚いたように微笑んだ。

「懐かしいわね。あなたが戻ってくるなんて」

 彼女は少し戸惑いつつ、当時のことをこう語った。

「先生は、私たち生徒に『正しいことを恐れず言いなさい』って教えてたわ。でも事件の夜、先生は校舎裏に呼び出されていたらしいの。誰かが呼んだのよ。で、その呼び出し相手が先生を……」

「誰が先生を呼び出したんだろう?」私は問うた。

「さあ……、みんなわかっているようでわかっていないの。あの夜、私たちは卒業前の合奏会のために遅くまで練習していたの。先生は『赤いマフラー』を巻いて外へ出て、戻らなかった」

 志野原は視線を落とした。

「あなたは、その夜のことをよく覚えていないの?」

 問われて私は驚く。確かに、事件当夜の記憶が妙に曖昧だ。私は当時まだ中学生で、父の事業が傾き家庭環境が荒れていた。あの混乱の中で、私は何をしていたのか。

 私は次に同級生だった者たちが集められた資料を求め、校舎の跡へ足を運ぶ。校舎はもう廃墟となっているが、音楽室は比較的原型をとどめている。埃をかぶったピアノの上に、擦り切れた合奏会のプログラムが残っていた。そこには生徒一人一人のパート名が記されている。そして日下部先生の丁寧なメモ書き。

 私はその裏面に、不気味な走り書きを見つけた。「真実を知る者は、赤い印に導かれる」。赤い印とは何だろう。赤いマフラーを指しているのか? あるいは何か別のもの?

 その夜、私たちは「星に願いを」を練習していたはずだ。私はフルートを吹いていた記憶がある。しかし、その練習後のことが曖昧だ。私がホールから出た後、何をしていた?

 私は再び資料室へ戻り、比山に尋ねる。

「当時の捜査記録には、私たち生徒の証言はないんですか?」

「あるにはあるが、詳しくは外部に出したくないのだが……」

 私は粘り強く説得し、古いインタビュー記録を読ませてもらう。そこには天童や志野原、その他何人かの生徒の供述があった。

 ――『事件当夜、校舎裏で赤いマフラーを見た生徒がいる』

 ――『誰かが先生を怒鳴りつけるような声を聞いた』

 ――『フルートの音を最後に聞いた気がする』

 フルート? それは私の担当パートだった。

 私は次第に不安に駆られる。記憶が曖昧なだけなのか。それとも、私が何かを隠しているのか。

 翌日、私は森の中にある小さな祠(ほこら)へ足を運んだ。かつて日下部先生が時折生徒たちを連れて来た場所だ。そこで祠の裏手に、古い木箱が埋まっているという噂を聞いたのだ。

 苔むした石の下、手探りで掘り起こすと、そこから水濡れた日記帳が出てきた。表紙には「K」とだけ記されている。中をめくると、それは日下部先生が残した日記だった。最後のページはこう綴られていた。

「私はこの町で起きている不正を暴くため、ある生徒の父親が関わる不正な土木契約を公表しようと思う。その生徒は優秀で純粋だが、父親を守ろうとする気持ちが強い。もし、この告発を行えば、その子は傷つくだろう。しかし真実を示すためには避けられない。私は今晩、その生徒に直接話すつもりだ。赤いマフラーを目印に、校舎裏で待ち合わせを――」

 私は震える手で日記を閉じる。先生は私の父を糾弾しようとしていた。そしてその夜、待ち合わせをしたのは私だったのだろうか。

 ふと、その場で誰かに見られている気配を感じて振り返ると、木立の陰に志野原が佇んでいた。彼女はそっと近づいて、悲しげな目をする。

「やっぱり、あなたが見つけてしまったのね」

「私が……? 何を?」

「あなたは当時、先生に呼び出されていたの。父親の不正を暴くと言われて必死だった。あの夜、あなたは先生に問いただし、取り乱し、もみ合ううちに先生を倒してしまったの……」

「嘘だ!」私は叫ぶ。だが記憶の底から何かが湧き上がる。雨に濡れた校舎裏、赤いマフラーが泥にまみれる様、必死になって止めようとする私の手と、先生の悲痛な表情。それから、息が止まった先生の横で、震えながら泣く自分。

「あなたはショックでその記憶を封じ込めたの。町の有力者だったあなたの父親は、証拠を隠し、あなたを町から出した。誰も真相を追及しなかった。でも、私たち同級生はずっと知っていた。あなたが真実に向き合える日が来るのを待っていたのよ」

 志野原は静かに頭を下げる。

「なぜ、黙っていた?」

「当時、中学生だったあなたに罪を問える人はいなかった。そして先生は最後まであなたを信じていたわ。あなたには音楽の才能があった。きっとあなたは真実を受け止め、何かを変えられる人になると……」

 私は膝から崩れ落ちる。自分が探し求めた犯人は、この十年間、私が封じてきた自分自身だった。日記、赤いマフラー、フルート、記憶の欠落――全てが私を示唆していた。

 雨がまた降り出す。祠の上、木々が揺れる音の中で、私は泣いた。あの夜の声が耳に戻る。「正しいことを恐れず言いなさい」という先生の教え。それを裏切ったのは私。

 それでも、もう逃げるわけにはいかない。私は真実を記事にする。父が行っていた不正と、それを暴こうとした日下部先生のこと、そして犯してしまった罪。誰も読んでくれないかもしれないが、それでも私は書く。

 先生が生前残したメッセージが、私の胸に蘇る。正義を貫く勇気を。私はペンを握り、ノートを開く。

 十年越しの雨のなか、私の内側で長く固まっていた罪悪感が、ようやく言葉となって溶け出していくのを感じた。