人生全て外的要因論

「結局、人生なんて親ガチャ、環境ガチャだよな…」

深夜の居酒屋、あるいは気の置けない友人との飲み会。ふとした瞬間に、そんな言葉が漏れることはないだろうか。自分の努力や意志とは裏腹に、生まれ持った才能、育った環境、偶然の出会いといった「自分ではどうしようもない要因」に人生が大きく左右されていると感じる瞬間。それは、誰もが一度は抱いたことのある、ある種の諦念にも似た感覚かもしれない。

先日、まさにそんなテーマで友人と白熱した議論を交わした。友人の知人には、「人生はすべて外的要因で決まる。遺伝子ですら外的要因だ。自分の中に『原因』なんてない」と断言する人物がいるらしい。いわば「人生全て外的要因論」の徹底的な信奉者だ。

この考え方、突き詰めていくと妙な説得力がある。確かに、私たちは自分の意志でこの世に生まれてきたわけではない。親から受け継いだ遺伝子、生まれた国や時代、家庭環境、学校で出会った友人、社会のルール… そのすべてが、私たちの思考や行動パターン、そして人生の道筋に計り知れない影響を与えている。まるで巨大なビリヤード台の上で、最初に突き出された球のように、あとは他の球や壁との相互作用(外的要因)によって軌道が決まっていくかのようだ。

仏教には「縁起」という考え方がある。すべての物事は、互いに依存し合い、影響し合って存在している、というものだ。これも、個人の独立した意志というよりは、関係性の中で物事が決まっていくという外的要因重視の視点と捉えることができるだろう。(宗教学の授業で触れたことを思い出す。)さらに現代の神経科学では、「受動意識仮説」なんていう少しショッキングな説もある。私たちが「よし、右手を挙げよう」と意識するよりも 前に、脳はすでに右手を挙げるための指令を出し始めている、というのだ。だとすれば、私たちの「自由な意志」なんて、後付けの説明、あるいは脳が生み出した幻覚に過ぎないのかもしれない。

こう考えていくと、「人生全て外的要因論」は、冷徹ながらも否定しがたい真実味を帯びてくる。「そりゃそうだ、親から生まれてる時点で、もう外的要因の影響下じゃないか」――論理的に考えれば、そう結論付けたくもなる。

それでも抗いたい「自分」の感覚

だが、本当にそうだろうか? 私たちは、本当にただ流されるだけの存在なのだろうか?

どんなに外的要因の影響を認めざるを得なくても、私たちの内側には「いや、それでも自分で考えて、自分で決めているんだ」という確かな感覚があるはずだ。困難な状況でも、諦めずに考え抜き、別の道を選び取ろうとする「理性」の働き。たとえそれが過去の経験や知識(それも外的要因の産物かもしれない)に基づいていたとしても、「今、ここで、私が」考えている、選択している、という主体的な感覚は消せない。

議論の中で、私は言った。「内的要因はあると思うよ。それは『理性』だ。考えることだ」と。

ここで議論は少しややこしくなる。「考える」という行為自体が、生まれ持った性格(遺伝子)や、これまでの経験(環境)によって方向づけられているじゃないか、という反論は容易だ。結局、「何をもって『内的』とし、何をもって『外的』とするか」という定義の問題に行き着いてしまう。明確な境界線を引くのは、実はとても難しい。

しかし、私はもう一つの視点を提示した。「時間的軌跡が自分を作る」――これはどういうことか。たとえスタート地点(遺伝子や初期環境)が外的要因だったとしても、そこからの人生の道のり、経験の積み重ね、その中で考え、感じ、学んできたことのすべてが、他の誰でもない「自分」という唯一無二の存在を形作っていく。その「軌跡」そのものが、外部からの影響を受け止め、反応し、時にはそれに抗ってきた「内面」の歴史と言えるのではないだろうか。

「信じた方が得」というプラグマティズムの知恵

ここで、「じゃあ、結局、自由意志って本当にあるの?ないの?」という究極の問いに白黒つけようとすると、哲学の迷宮に迷い込んでしまう。だが、私たちは(あるいは少なくとも私は)日々を生きていく上で、もっと大切なことがあるのではないかと考えている。

私は「プラグマティズム」という考え方に触れた。これは「実用主義」とも訳される。つまり、「真実かどうか」よりも、「それが実際に役に立つか、良い結果をもたらすか」を重視する考え方だ。

「内的要因がある、自分にはできる、と『思った方が』都合が良いだろ?」

これは、真実から目を背けるための言い訳だろうか? 私はそうは思わない。むしろ、これは不確実な世界を生きていくための、非常に賢明な「生きる知恵」ではないだろうか。

自分が人生の操縦桿を握っている、自分の意志で未来を変えられる、と信じること。心理学でいう「自己効力感」に近いこの感覚は、私たちにモチベーションを与え、困難に立ち向かう勇気をくれる。たとえそれが厳密な意味での「真実」ではなかったとしても、そう信じることで人生がより豊かで、前向きなものになるのなら、それを選ぶ価値は十分にある。決定論に囚われて無気力に生きるよりも、主体性を信じて能動的に生きた方が、結果的に多くのものを得られる可能性が高いのではないだろうか。

賢くなると、人生はつまらなくなる?

対話はさらに、「知識」と「人生の楽しみ」の関係へと進んだ。これもまた、多くの人が一度は考えたことがあるテーマかもしれない。友人はこんな懸念を示した。

「麻雀やポーカーだって、突き詰めれば最適解が見えてきて、ただの作業になっちゃうんじゃないか?」
「賢くなりすぎると、周りの人と話が合わなくなって、昔みたいにバカやって楽しめなくなるんじゃない?」

確かに、知識は世界の「不確定要素」を減らす側面がある。予測可能性が高まれば、ドキドキするようなスリルや、偶然が生み出すドラマは減るかもしれない。それに、知識レベルが上がっていくと、同じレベルで話せる人が少なくなり、孤独を感じやすくなる、というのも頷ける話だ。「周りと同じくらいの賢さの方が、トータルでは楽しいんじゃないか」――そんな意見も出てきた。

無限に広がる「知る喜び」の世界へ

しかし、私はここでも力強く反論した。「学べば学ぶほど、世界は面白くなる」と。

知識は、世界を単純化するどころか、むしろその奥深さ、複雑さ、そして美しさを教えてくれる。一見バラバラに見える事柄の間に隠された「見えないリンク」(アナロジー)を発見した時の知的興奮。歴史を知ることで現代の見え方が変わり、科学を知ることで日常の風景が違って見える。それは、世界という巨大なジグソーパズルのピースを一つひとつ集め、少しずつ全体像が見えてくる喜びに似ている。

古代ギリシャの哲学者は、知の探求の根源にある感情を「タウマゼイン」(thaumazein)と呼んだ。*1 それは「驚き」や「知への渇望」を意味する。なぜ空は青いのか? なぜ私はここにいるのか? 世界を知りたい、理解したいという欲求は、どこから来るのだろうか?

ここで、私は一つの(勝手な)推測を披露した。AI学からの"アナロジー"である。*2「世界を知る」ということは、「より正確な予想ができるようになる」ということではないだろうか。そして、「正確な予想」は、危険を察知し、食料を見つけ、社会的な関係をうまくナビゲートするなど、明らかに「生存確率を上げる」ことに繋がる。だとすれば、私たちが持つ根源的な「知的好奇心」とは、単なる高尚な精神活動なのではなく、進化の過程で私たちの遺伝子にプログラムされた、極めて実利的な「生存本能」の一部なのではないか、と。知ることそのものが快感であるようにデザインされているのは、それが生存に有利だったからではないか、と考えているのだ。

「一生かけても、世界の1%も理解できない」――これは悲観的な言葉ではない。むしろ、私たちの前には無限の探求のフィールドが広がっている、という希望のメッセージだ。学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを知る(ソクラテスの「無知の知」!)。しかしそれは、絶望ではなく、さらなる知への扉を開く鍵となる。だから、知識によって人生の楽しみが枯渇するなんて心配は無用なのだ。生存本能に根差した知的好奇心は、尽きることがないのだから。

周囲とのレベルの違いだって、本当に問題だろうか? 新しい知識は、新しいコミュニティとの出会いをもたらすかもしれない。研究者のように、同じ興味を持つ仲間とさらに深い領域を探求する道もある。あるいは、かつての友人と共に学び、共に賢くなっていく、という選択肢だってあるはずだ。

私たちは「楽しむ」ために、考え続ける

さて、長々と友人との対話を振り返ってきたが、結局のところ何が言いたいのか。

「人生全て外的要因論」という決定論的な考え方は、論理的には非常に強力だ。しかし、私たちはその冷徹な論理だけでは生きていけない。自分の内側から湧き上がる「考えたい」「選びたい」「知りたい」という衝動、すなわち「内的要因」と呼びたくなる何かを、完全に否定することもできない。

重要なのは、「どちらが絶対的な真実か」という答えの出ない問いに終始することではなく、「この二つの考え方の狭間で、私たちはどう生きるか」ということではないだろうか。

対話の最後に飛び出した「楽しんだもん勝ち」という言葉。これは単なる享楽主義のススメではない。むしろ、自分の人生の意味や楽しみを、誰かに決められるのではなく、自分自身で定義し、主体的に追求していく姿勢そのものを指しているように思う。

外的要因の影響を認めつつも、それにただ流されるのではない。自分の「理性」を働かせ、考え、学び、選択していく。プラグマティズムの知恵を借りて、「自分にはできる」と信じてみる。生存本能にも根差した「タウマゼイン」に従い、世界の無限の面白さを探求し続ける。そして、他者と関わり、語り合い、共に驚き、共に考えていく。

そのプロセス自体が、たとえ決定論的な世界観の中であっても、私たちが人間として見出すことのできる「豊かさ」であり、「内なる力」の発露なのかもしれない。

あなたは、どうだろうか? あなたの人生を動かしている「内なる力」を、どう捉え、どう使っていくだろうか。この答えのない問いについて考え続けること自体が、すでに「楽しむ」ことへの第一歩なのかもしれない。

 


*1: 以下の記事参照

タウマゼイン--古代の哲学者曰く、知的探求の原始にある驚異。簡単に言い換えると、この世の美しさに痺れる肉体のこと。そして、それに近づきたい願う精神のこと。つまり--「?」と感じること。

以下noteより

 

*2: 以下の記事参照

学習時の「予測値と正解値の誤差を小さくする」とは「その言語の背後にある世界モデルを正確に捉える」ことと同値なのです。(Fig3)

以下note 3.1より